数ヶ月前に「日本語が亡びるとき」という本(以下「この本」とする)が話題になっていた.私は立ち読みはしたが,買って読んでいない.だから細かい書評は書かない.ただこのタイトルだけはどうしても気になる.
結論から言えば,日本語はそう簡単には亡びはしない.その意味でこの本のタイトルは間違っている.日本語の話者はどんなに少なく見積っても1億人以上はいる.そもそも日本の人口はもっと多いはずだし,高齢化で減ったとしても数千万は維持されるだろう.世界には話者が数万,あるいは数千人以下しかいないため危機に瀕している言語が無数にある.それらに比べたら,日本語はその話者の大半が日本の領土内に限定されているとはいえ,確固たる社会基盤の上に成立している堂々たる言語である.文法や正書法の透明性の面では英語やフランス語などのより広範に普及している言語に劣るとはいえ,日本語を母語としない人達の間にも日本語教育が広がっている現状を考えれば,亡ぶなどということは考えるべきではないだろう.言い換えれば,仮に他国から攻め入られて滅びるような言語は,その程度でしかない.
本来,この本の話は,完全に無視すべきなのだろうと思う.私自身は,「文学」という表現が好きではない.そもそも文章表現は主観的な感情に基づくものであり,「文芸」なら理解できるが,文学が工学や医学と同様の立場で,学問であるとは思えない.そして,言語が「美しい」必要もないと思っている.言語はそもそもコミュニケーションの道具であり,通じない言語に,いくら美しさを求めても無駄であろうと思う.美しさは主観的なものであり,他人に押しつけられるものではない.今世界が求めるのは「美しい日本語」よりも,母語でない人達も理解できるように体系づけられた「通じる日本語」であるべきだろう.その意味で,この本の主張は理解しがたい.
ただし,tatemura氏によるこの書評が信頼できる解釈を語っているとするならば,私は同じ状況にあって全然別の考え方に至っているということだけは書いておくべきだろう.以下は個人的雑感である.
多くの子供達にとって,親に連れられて他の国や地域に行くことは決して珍しくない.「転校生いじめ」は日本に限らず物語の格好の題材である.私も9才の時に渡米し,10才の時に日本に戻ってきた帰国者である.転校生いじめとは無縁ではない.帰国者の子供達に対し,ちょうど私が帰国したころ,帰国子女,という言い方が流行り始めたが,私にはこの言葉は差別の道具にしか見えない.だから引用以外では使わない.
ただ,日本に戻ってきた時に直感したのは,小学校における中間集団全体主義と強制同期社会主義の蔓延であった.日本の学校は,楽しくなかったのである.その後中学や高校は多少自由な学校に入ったものの,そこでも普通の英語を話せばフルボッコにされるという,およそ理不尽な状況に直面した.今ならインターネットで英語圈の情報は音声も文字もすぐに手に入るが,1970年代後半から1980年代前半にはそんな自由はなく,英語の本を入手することさえ難しかった.
その時幸運だったのは,東京にいたおかげで,アメリカ軍の放送(810kHzのFEN,現在はAFN)だけは毎日ふんだんに聞けたことである.あれがなかったら,今の自分はなかったかもしれない.そしてラジオではアメリカン/ブリティッシュ・ポップスがたくさん放送されていた.今のラジオがJ-POPだらけなのとは大違いである.別にJ-POPが悪いとは言わないが,音楽マーケティングが明らかに偏って内向きになっているのは否定できない.ともあれ,当時は,放送に使われている表現,そして歌の発音,歌詞,すべて徹底的に繰り返し,自分の身に付けるべく努力した.周囲に英語の雑談をする人はいなかったし,1985年に国際パソコン通信を始めるまでこの封鎖状況は続いたが,その時に徹底した訓練を行ったことは今の自分の仕事,そして趣味と人生の上で大きな力になったと思う.
そしてもうひとつ幸運だったとすれば,自分が興味を持った電子工作の世界では,米国の部品が主流だったことである.TIやモトローラ,NSのデータシートは翻訳されず再出版されていたので,格好の英語の勉強道具となった.一部のデータシートは請求すれば無料でもらえた.おかげで absolute maximum rating (絶対最大定格) など,およそ小学生は知らなくて良さそうな表現を多数覚えることができた.その後パソコンの世界では,まさにデータシートもマニュアルも全部英語で書かれていたので,原典にあたる習慣がついた.以後の話は長くなるので省略する.
要するに,自分のもともとの環境に対して異なる環境にさらされた時に,その経験を生かせるような道に進むか,それとも閉じ込もって否定された「それまでの自分」に執着しつづけるか,という違いが,この本の著者と私との間の認識の相違であろうと思う.
もちろん,これだけの文化的な相違を理解する過程では,私の人格はボロボロにされた.だから私は日本人の多くを「日本人なんだから自分の隣人である」とは理解できずにいる.彼等の他人に対する批判を言わない,自分の意思を表現せずあいまいにする行為の大半は,私には単なる嘘にしか見えない.その意味では,帰国者の苦しみをわかるのは,海外で生き抜こうと母語を使わずに闘った在外体験のある人達,親の出身国あるいは地域が自分のそれと異なるため複数の言語で生活をしなければならない人達,そして母語を捨てても社会的地位の向上のために適応しようとする移民の人達,ぐらいしかいないだろうと思う.
しかし,個人的な感情を抜きにしても,言語的鎖国が日本にとって,また他の国々にとって,良いものは一切もたらさないのが現在のインターネット社会での大原則である.あらゆる鎖国的行為は,インターネットによる開国が前提である社会では,いくらタテマエでは規則であっても,ホンネの世界では骨抜きにされるからだ.(2011年1月注: チュニジアやエジプトで起こった政変は,期せずしてタテマエの規則がホンネの力によって崩壊するという現実を見せつけた.)ましてや悪しき鎖国主義が台頭しようとしている現在の日本で,「日本語が亡びるとき」などというタイトルをつけて本を出すことは,ポピュリズムにおもねて売り上げを伸ばそうという行為以外の何物でもないだろう.
前述のtatemura氏による書評は読むに値するだろうし,彼の言う「小説」としてこの本を解釈するならば,それは妥当かもしれないと思う.しかし,仮にそうであったとしても,この本の著者には私は共感することはないだろう.
日本語が滅びるような事態を招かないために必要なのは,決して「日本近代文学」なるものではなく,日本語がより普遍性のある言語としてその文法と正書法を確立すると同時に,その話者の大半を占める日本社会に住む人達が日本語を意味あるものとして証明し続けることであろうと思う.それは現在の「国語教育」の延長線上には決して存在することはない.日本社会の構成員が日本語を「国語」でなく,「日本語」として客観的に見られるような状況,そしてそのような人達をより積極的に迎え入れる開国を徹底して続けること以外に,ないのである.
その開国の結果,日本語が失くなってしまったとしたら,日本語はその程度の言語だったということであろう.そんなことは起こらないだろうと,私は信じている.仮に起こってしまったとしたら,それはそれで受け入れるべきであろうとも思う.その責任は,私を含めて日本語話者全員にある.
(初出: はてなダイヤリーより,一部編集済み)