2016年2月18日

大学で過ごした日々

1984年から東大で学部から修士まで6年間、2002年から阪大にて外部の研究協力者として、また社会人博士の学生として3年過ごし、2010年から京大では教授として3年弱勤務した。残念ながらそれらで得た結論は皆同じで、どこも組織としてはダメだった。もちろんその過程でいろいろな出会いはあったし、勉強もできたことを考えれば、全部無駄だったとは思っていないけれど。

最初に大学に行ったときは、コンピュータ屋は目指していなかった。大学の中では計算機屋の地位は低い。そして率直に言って日本の大学は計算機科学のレベルは高いとはいえない。東工大のTSUBAMEのような例外的成功例はあるが、基本的に米国の後追いを越えていないし、また越えられない理由が無数にある。もしコンピュータ屋を目指すのであったなら、学部の時点でUC BerkeleyやStanfordやMITを目指すべきだったと思っている。もっとも、お金もなかったし体力もなく健康でもなかったので叶わぬ夢だったが。

もっとも、そうはいっても、結局、自分は理論物理屋も地球物理屋もできず、さりとて成績も良くなかったのでそもそも理学部情報科学科への進学はかなわず、工学部応用物理関連学科群に進学することになった。本格的にコンピュータ屋に復帰したのは、修士の時に情報工学専攻で学ぶことになってからである。これが良かったのかどうかは、自分では判断できない。まあ、好きなことではなく、目をつぶってでもできることでなければ人間はロクに稼げないので、そういう意味では向いていたのかもしれない。

21世紀になっても相変らず旧7帝大が権勢を振るっているのが日本の実情だと個人的には思っている。国公立私立を問わず、文科省が生殺与奪を握っている以上、これは不可避かもしれない。国立大学も2006年に国立大学法人と名称を変えたとはいえ、どの大学も運営は官僚的そのものであり、計算機科学のような論文数も少なく何をやっているかわからない分野には理解は低い。

大学は基本的に外部との交流をものすごく嫌う。中の組織は皆それぞれの派閥を作りたがるので、常に相互監視疑心暗鬼の世界にある。このような状況はこの30年弱で変わるかと思ったが、大して変わっていない。かつて京都大学にて全学の情報セキュリティに関する仕事をしていたときには、多くの教員から敵意に満ちた批判を受けた。まあ職務上無理からぬこととはいえ、組織としての統制がまったく効いていない状態では、徒労感のみ残る仕事だったことは否めない。実際には、統制される側が自律しているとはお世辞にもいえない状況であり、日々起こる事案に対応しなければならず、現場は混乱の極みだった。

京都大学でもう一つ感じたのは、学生が自由を求めていろいろ騒ぐのはいいとして、本来それを受け止める側の教員までが同じように騒いでいる例が少なくないことだった。京都大学は対話を重視する大学をスローガンとしてかかげているが、実際には各人自分勝手な主張をしているだけで、何の対話にも教育にもなっていないように見えた。もちろん粛々と日常業務をこなし、一切動じていない先生方もたくさんおられたのもまた事実だが。自分もそのような日常業務をこなし、一切動じない教員になろうと努力はしたが、あまりにも不条理が多く、プロパーでないことによる立場の低さはいかんともしがたい状況であったため、結局健康を害してしまった。

そんなわけで、自分は大学に関しては、人生選択を誤ったなというのが率直なところである。計算機科学に限定するならば、北米のトップの大学へ行った方が遥かに実践的な勉強ができただろうし、現在なら他の選択肢はないに等しいだろう。

ただ、学術研究そのものに対する締め付けとコスト高騰の波は日本以上に北米は厳しい。コンピュータ屋の場合、大学を出てさらにテックベンチャーで滅私奉公して働くことを覚悟しない限り、自己破産でも免除されない学資ローンの借金で首が回らなくなることは想像に難くない。それが本当に正しい人生の選択なのか。そしてサンフランシスコの超高コスト社会で大きな出費を強いられるのが良いことなのか。


何が正しいか、今の私にはわからない。それが率直な感想である。

(初出: Facebookの個人アカウントでのNotes 2015年9月26日)