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2017年12月30日

2017年を振り返って

今年もあっという間に大晦日の前日になってしまった。

2017年はペパボ研究所での活動、そしてご支援いただくお客様の業務に多く時間を割くこととなり、結果として対外活動は減ったが、その分充実した仕事ができたように思う。経済的にも4期目にしてようやく軌道に乗りつつあり、安定した経済基盤の重要さを改めて実感する年となった。以下に公開できる活動の中で主なものを記す。

  • Erlang/OTPとElixir関連では、3月にサンフランシスコのErlang and Elixir FactoryにてWriting OTP Modulesと題したErlang/OTPのモジュールの書き方に関する発表を行った。そして直後のElixirConf Japan 2017で参加報告を行った。
  • 2017年1月からペパボ研究所の客員研究員として、研究開発に関する各種コンサルティングを行っている。主席研究員の松本亮介さん他皆さんの活動を支えるのが主な役目だが、GMOペパボという会社の「速」「バーン感」に代表される身軽さと若い力強さにむしろ私の方が大いに力付けられた1年であった。
  • また今年はC++やC#、そしてVisual StudioといったWindowsの王道開発環境とガッツリ取り組んだ1年であった。人生初のオブジェクト指向言語での仕事であり、多くの若き先達に尻を叩かれながらなんとかやっている状況にふがいなさを感じつつも、52歳にして圧倒的成長をせざるを得ない(しなければプロとして信頼されない)環境に身を置けることは幸せなのだと思っている。
  • 同時に今年はMoodleなどEラーニングの環境についても多くを学んだ年であった。もはやコンピュータを使った自習環境は誰でも作れて当たり前であり、業務に応用しない手はないことを実感した年でもあった。
  • 疑似乱数関連では10月にそれまでの研究成果をまとめた発表を行う機会を得た。この分野は日進月歩で新しいアルゴリズムが提案されており、引き続き研究を進めていきたい。
  • FreeBSD関連では、Microsoft AzureでのPoudriere環境構築や、新しいPortdevel/czmq4の開発を行った。引き続きdevel/git-lfsとjapanese/dbskkd-sdbのMaintainerの作業は継続して行っている。
  • 2014年12月から運用しているFlightRadar24の受信局は2017年4月下旬に受信機の故障に伴うサービス停止が発生したものの、FlightRadar24の運営の皆さんの尽力で代替機に交換してからは順調に動いている。久々にRaspberry Piでの受信環境をセットアップする実験も行った。
  • 自宅事務所はNTT西日本のフレッツ・光ネクストへの移行を行った。これですでに光ネクストを使用している東京拠点と併せ、ASAHIネットのIPv6サービス開始に伴い、IPv6 IPoEのネイティブ接続が可能となった。1996年にIPv6の最初の実験を始めてから実に21年かかったことになる。
  • 10月からDuolingoでスウェーデン語の学習を始めた。毎日学習を続けることは容易ではなく、発音することも聞き取ることもおよそできているとは言い難いが、2018年は2016年同様にErlang/OTPやElixir関連でストックホルムへの旅行を計画しており、それに向けて地道に学習を続けている。

2017年は米国第45代大統領とその側近達によるおよそ正常とはいえない失政の連続などにより、世界は大きく混乱した。そして日本も北朝鮮の脅威を看過できない状況であり、2018年はより不透明、不確実、そして不安定な世界情勢になっていくことは間違いないだろう。毎日、その日を暮らすことができ生き残れていることは奇跡であることをかみしめつつ、来年2018年も活動していこうと思う。まだまだ学ぶことは多いが、引き続きやっていく所存である。

以下、2017年と2018年の新年のあいさつの画像を付ける。2018年が少しでも2017年より良い年になりますように。

2017年1月27日

好きなことをして生きていくこと

2017年1月から仕事でペパボ研究所のお手伝いをしている。ペパボ研究所の研究リーダーである松本亮介akaまつもとりーさんが「好きなことをして生きていくこと」を淡々と熱く語っていた。そこで読みながら感じたのは「自分は本当にコンピュータが好きだったのだろうか?」という自分に対する問いであった。すこしその観点から書いてみようと思う。

もちろんコンピュータは好きだったんだろう

コンピュータが好きだったかと聞かれたら、それはもちろん好きだと答えるだろう。1973年の8歳の時、電電公社の電話計算の開発をしていた人にお世話になって、DEMOSのコンピュータまで触らせてもらったことがその後の自分の人生に大きな影響を与えたことは間違いはない。父がコンピュータを日常的に使っていた研究者だったのも当然影響していると思う。1974年に渡米中にコロラド大学の環境科学共同研究センターにあったCDC6600で最初にパンチカードでFORTRANのコードを実行したのもプラスにこそなれマイナスにはならなかったに違いない。当時は英語はロクに読めなかったけど、父の周囲の日本人研究者の人達が持っていたALGOLやAPLの本を読ませてもらった。「将来は絶対家にコンピュータが欲しい!」と思ったのもこの時だ。

1975年にテキサスインスツルメンツの74シリーズのTTLとモトローラの4000シリーズのCMOS、1976年にインテルの8008、そしてすぐに8080を知ってからは、アセンブリ言語が身近なものになった。そしてバスタイミングやファンアウトなどのデジタル回路の基本を勉強し始めた。実際に回路を作って実装できるようになったのは中学2年になった1979年以降だけど。家から秋葉原が通える位置にあったこと、そして1970年代はデジタル回路のデータシートを置いてあるような本屋が新宿にあったことなど、いろいろな好条件が重なったことが影響したのは間違いないと思う。あとは周囲の人達の影響だろうか。そのころからの付き合いが今もFacebookやTwitterで続いていたりする。

1979年にApple ][の実機を入手できたことは、それ以降の世界を大きく広げた。1980年代に入ると、自分で簡単なコンパイラを書いてそれがそこそこ売れたりしたこともあって(GAME-APPLEコンパイラ、ASCII誌1980年4月号)、コンパイラやインタプリタの製作技法に興味を持つようになる。すでに他界された中西正和先生の「LISP入門」という本を読んでLISPにも興味を持ったりした。タイマー駆動でPSGを演奏したり、いろいろなことをやったと思う。

でもコンピュータでは一番になれなかった

ただ、世の中はそう順風満帆に行くものではない。高校2年生の1982年に網膜剥離と白内障で事実上右眼の視力が使いものにならなくなってからは、目に過度に負荷をかけるコンピュータをやる気にはなれなかったのと、大学受験に集中する必要もあって、1985年までコンピュータをほとんど触らない時間を過ごすことになる。その間に流行ったのは、ゲーム作りやフロッピーディスクのプロテクト外し、そしてコンピュータグラフィックス(CG)であった。これらの流行りに乗れなかったことは、現在まで後に尾を引いているように思う。今もCGは苦手だったりする。

そして1985年のNTT民営化に伴う電話回線開放以降は、多数の「すごい人」達に出会って、プライドを粉々にされる日々が続いた。たぶん純粋に好きだからではなく、人を見返すためだけに行動するという動機が加わったのはこの頃からだろうと思う。パソコン通信は世界を変えるだろうと思い、その周辺の通信技術も随分勉強した。アスキーネットや日経mixといった各種BBS、そしてJUNET、UUCPやSMTP、NNTPといったWebより前のメッセージ交換の技術学習と研究に没頭したように思う。「フリーソフトウェア」という概念を学んだのもこの頃だった。

でもこのころ「コンピュータが好きだったか」と聞かれると、残念ながらそうではなかったように思う。コンピュータのプログラミング言語や各種メモリ管理の技術は大事だし、当時流行ったC言語は仕様からすべて覚えて実際に使っていたけれど、機械の中だけで完結する世界を立派にしたところでどれほどの意味があるのかという問いへの答は出ていなかったように思う。だから大学院の修士課程では、今なら花形であろう関数型言語の研究をやっていた研究室に進学したにもかかわらず、ロクに大学に行かずに劣等感のカタマリになっていたことを覚えている。ちょうど1990年前後のバブル絶頂期でもあり、周囲が派手にカネを使って遊んでいる中で、自分は英語の勉強とかコンピュータの勉強とかで人間関係に苦労していて、新卒でOS開発の仕事をしていたころもTCP/IPの実験が十分にできないというジレンマに苦しんでいたこともあって、とても人生は辛かった。

そして他のことでも一番にはなれなかった

1992年に結婚と同時に大阪に移住してからは、インターネットの関連技術の研究開発の仕事をずっとしている。もちろんインターネットはコンピュータの技術なのだけど、それでコンピュータが好きになったかどうかと言われるとこれもかなり疑わしい。OSひとつを取ってみても、主流の製品を選ばなかったことは後々まで影響している。自分は4.3BSDからSunOS 4.1.xを経てBSD/OS、FreeBSDへと進んでいったのだけど、周囲はWindows95だったりLinuxだったりという状況を経て、いまや世の中はLinuxだらけになってしまった。

どんなに良いものでも、独占的状況を占めると、悪いところが目につくようになる。バージョン9以前のMacOS(OS XやmacOSではない)のろくでもないメモリ管理、Windows XP以前の脆弱性、そしていまだにまともなデスクトップが作れずGNUismにまみれているLinux(そして今使っているFreeBSDもデスクトップが貧弱なことは同じだ)など、常時利用するには好きになれないソフトウェアが増えた。Webブラウザだってそうだ。背景が白になっているというだけで目の悪い者には大きな負担になるし、必要のないソフトウェアが集まってbloatwareになっている。インターネットもIPv6に移る移ると言いながら未だに日本ではIPv6の普及率は低い。

でもソフトウェアなりコンピュータがコモディティになって一般化する上で大事なのは、性能よりも広告とマーケティング、そして中身よりも見かけ、本質よりも利便性なのだということを2000年代に自分は学んだように思う。このことが絶対的な悪だとは思わないが、善だと言い切れるほどの自信は自分にはない。良くて「必要悪」がせいぜいだろう。

そしてマーケティングと広告だけを重視したツケは、基盤部分に回ってきて大きな技術的負債、あるいはもっといえば技術的賠償責任(technical liability)になってきている。世の中全体のvolatilityも上がり、ずいぶん不安定になってしまった。Twitterの過激な発言と炎上を繰り返して政治的権力を握るなんていう軍事プロパガンダと変わらない手法が一般的になってしまった。こんなことになってしまったコンピュータとインターネットをいまさら好きになれるのだろうかという疑問はこのころから今も残っている。

そして自分は2000年から2013年までの間は、研究者としてなんとかのし上がることに懸命だった。スタートが遅れた分、いくつかのプロジェクトを渡り歩き、自分には向かない長距離通勤を課せられる教授のポジションをあえて勤めて身体も精神も壊し、自分の望んでいない失職と雇用保険受給という厳しい経験もした。日本の組織は、しょせんプロパーでない者、そしてリモートワークの人間には冷たいということを、改めて身をもって学んだ。

わざわざならなくてもいい研究者になったのは、2002年に大病をして、もうその時点でやれることをやるしかないという諦めがついたからだが、結局のところそれは、博士でなかったことで侮辱されたこと、そして親父が教授だったのに自分は教授にすらなれていなかったことという劣等感がなさしめただけなのかもしれないと今は思っている。なにしろ世の中には大学を出ていなくても研究所の所長や教授になってしまう人もいたりするので(もちろん当事者が有能かつ優秀でなければこんな人事はあり得ない)、そういう勝負をすること自身無駄だったのかもしれない。ずいぶんな回り道をしたものだと苦笑している。

一番になれなくてもやれることをやるしかない

失職と共に人生肩書も名誉も何もなくなってしまった状態で、なにをして生きていくか。まずはとりあえず仕事をもらうために周囲の人達にお願いして回った。ありがたいことにお客様として支援してくださる方々がいるおかげで、仕事をしてなんとか食えている、現在の私がある。このときお客様になってくださった方々からいただいた話は、当然ではあるのだが、過去の自分の仕事と業務実績に基づくものであった。具体的には、自分が人生の早い時期で好きになったコンピュータに関する仕事であった。

残念ながらコンピュータ屋としては自分は一番になれなかった。そしてもちろんその他のことでも一番にはなれなかった。ただ、一番になれなかったからといって、自分が生涯やっていく仕事としてコンピュータ技術を使えなくなったわけではない。幸い、コンピュータの仕事をすることは今でもそれほど苦痛には感じない。仕事としてだけではなく生活の一部としてなじんでいるレベルにまでコンピュータ技術の身体性を維持できていることは幸運としかいいようがない。それは結局のところ「好きなことをして生きていく」ことを実行しているのだろう、ということは思っている。

最後に「好きなことをして生きていくこと」が残った

コンピュータの世界は変化が激しい面と、そうでない面がある。自分が好きなのは、変化の激しい分野ではなく、表面的に変化の激しい分野から、変わらず進んでいく技術要素を時間をかけて追いかけていくことなのだと思っている。伊藤直也氏のまとめたプレゼン資料にあるSystem of RecordとSystem of Engagementのどちらに自分が興味があるかといえば、System of Recordの方だと思っている。社会基盤を維持する技術の方が、人間相手に機械を使ってもらう技術よりも自分には向いていそうな気がする。

多くの人達が集まり、新しいアイディアが実装され実行されていく分野は、変化が激しい。そして競争も激しい。Webのフロントエンドがそのいい例だろう。System of Engagementに関する技術は、日々変化している。Makerムーブメント、スマートフォンの台頭、IoTのバズワード化。こういう変化に富んだ技術と触れているのは楽しいし、人間の使い方がこのような技術の発展に伴い変わっていく以上、技術者としても付いていかなければならない。

一方、本当に仕事としての価値が発揮されるものは、System of Recordの分野に属するものだと思っている。安定しているものが不安定になればすぐに社会に混乱が起きる。それほど今の社会は脆弱である。現実には、プログラミングもHTMLのテンプレート作りもいまだにエディタを使ってやっているし、OSだってUNIXから飛躍的な変化があったわけではない。そういう意味では爛熟した技術をいかに粛々と適用していくか、ということをやってきたからこそ、自分の今の生活が維持できているのだと思っている。この一見当たり前のように見えることが、実はビジネスになるのかもしれない、ということを最近は実感している。

前述のプレゼンの後日談として伊藤直也氏の記事が出ているが、そこに述べられているように、System of RecordとSystem of Engagementは、対立軸ではあっても、排他的概念ではない。両方の長所を掛け合わせるようにして仕事を動かしていくのが、おそらくコンピュータ屋、そしてソフトウェア屋として為すべきことなのだろうと思っている。そこに自分が研究者としてやってきた経験と、そこで学んだ学術的手法を活かせれば、おそらく「好きなことをして生きていく」実感を得ながら、仕事のサービスを通じてお客様に価値を還元していけるのだろう、と最近は感じている。もちろんそのためには、日々勉強に励まなければならないし、生活や事業の雑事も回さなければならない。家族はもちろん大事だ。楽なことはひとつもない。自分は情報技術者たり得ているだろうか。まったく自信はない。日々失敗ばかりだ。

でも、それこそが「好きなことをして生きていくこと」なのではないだろうか。

最近はそう思えるくらいに、自分の精神状態は回復していることを実感している。

2016年12月30日

2016年を振り返って

気がつけばもう大晦日の前日である。

2016年は物理乱数ハードウェアやその他IoT関連の実験、温故知新的なオブジェクト指向技術の学習、そして2度のErlang/OTP関連の出張など、過去2年よりもさらに自分の持ち駒を増やさないといけない年だったように思う。いろいろ厳しい時期もあったが、なんとかお客様のおかげで乗りきることができた。以下に公開できる活動の中で主なものを記す。

  • Erlang/OTP関連では、3月にサンフランシスコのErlang FactoryにてArduino UNOとErlang/OTPを接続するための技術に関する発表を行い、9月にはストックホルムのErlang User Conferenceで、Erlang/OTPでの各種疑似乱数の利用に関する総括的な技術の発表を行った。年内にはOTPにrandモジュールにjump functionをmasterブランチにマージすることができた。来年のOTP 20で公式にリリースされる予定である。
  • 5月にはQNAPのNASを導入した。これでバックアップ用のリソースを一元管理することができるようになり、業務での信頼性を上げることができたように思う。
  • 8月のMaker Faire Tokyo 2016では「科学技術教育フォーラム」の一展示として、物理乱数を使ったサイコロであるavrdiceの展示を行った。来訪者の方々から質問をたくさんいただくことができ、乱数技術、あるいはランダムネスに対する社会的関心は一定レベル存在することを確認できたのは収穫だった。
  • 物理乱数モジュールavrhwrngと新部裕さんのNeuGの追試は昨年から継続して行っている。これに関連して、技術評論社の雑誌Software Designに物理乱数と疑似乱数に関する連載を同誌2016年8月号から10月号まで3回執筆した。また、2016年12月号には、データベースの基礎技術であるハッシュとドキュメント指向データベースの解説記事を執筆した。
  • FreeBSD関連では、devel/git-lfsとjapanese/dbskkd-cdbのPort maintainerを引き継ぐことになった。これに伴い、Poudriereによるテスト環境を整備した。
  • 12月にはQiitaにてC言語、FreeBSD、そしてErlangのアドベントカレンダーを開設し、自らもElixirのカレンダーを含め23件の記事を執筆した。
  • 2014年12月から運用しているFlightRadar24.comの受信局は、NTT西日本からの回線更新に伴う停止やその他の一時的な回線障害による事故はあったものの、引き続き順調に動作している。2016年11月からはさらにアンテナの高さを上げてカバー範囲を広げ、KIX/ITM/UKB各空港周辺の情報提供の精度を上げることができている。

一方、引き続き生活の中で不要なものをどのようにして止めるかという見直しは絶えず行っている。これも列挙してみよう。

  • アマチュア無線の活動は事実上停止している。
  • 8月のMaker Faire Tokyo 2016で痛感したのは、展示会の出展側に回ることの疲労である。今後、仕事としての依頼でない限り、展示会の出展側に回ることは、特に6月から9月までの暑い時期には原則行わないことにしようと考えている。
  • オープンソース関連の活動については、旗振り役はもう若い世代に任せるべきではないかというのが率直な実感である。私のようなオッサン年長者は表舞台から積極的に降りるべきだろう。よってQiitaのアドベントカレンダーを主催するのは今年を最後とする旨宣言した。
  • 生活は引き続き大変厳しい。事業開始3年目であり、業務の展望について抜本的な見直しを行う時期に来ている。そして業務に直接つながらない出費については引き続き緊縮財政に努めている。

2016年は多くの災害や手段を問わない各種紛争に明け暮れた年であった。2017年は世界情勢の大転換は不可避であり、どのようになるか先はまったく見えない。今日まで生き残れていることは奇跡であり、日々の生活と業務を送れることはとても幸運なことなのだろうと思って来年2017年も活動していこうと思う。

2015年12月30日

2015年を振り返って

気がつけばもう年末になろうとしている。

2015年は昨年から始めた情報セキュリティ関連の翻訳に加え、Webのフロントエンド技術、インターネットへのハードウェア接続技術 (Internet of Things)など、昨年からさらに幅を広げて活動している。詳細は守秘義務があるので控えるが、今後とも仕事として自分でできることは何でもやっていく覚悟で活動している。以下に対外活動の中で主なものを記す。

  • 1月よりErlang/OTPのrandomモジュールを後継する疑似乱数モジュールの開発が始まり、3月にはサンフランシスコのErlang Factoryにて、疑似乱数の高性能化に関する発表を行った。この成果は5月にErlang/OTPバージョン18から取り込まれることとなり、京都大学に勤務していた時から5年越しで続けてきた研究開発の成果を世に送り出すことができた。
  • 技術評論社の雑誌Software DesignにErlang/OTPに関する連載を同誌2015年4月号から12回の予定で続けている。2015年8月号にはElixirの記事も執筆した。
  • 4月に情報処理技術者試験の情報セキュリティスペシャリスト試験を受験。薄氷を踏む思いだったが、6月に無事合格通知をいただく。
  • 昨年12月からのIngressでの活動は、5月上旬にSojournerメダルをもってA11を達成した時点で終了。ならびに関西地区(PA01-ALPHA-00)各地で普段歩かないところを歩いたのはよい人生の経験になった。ただスマホの画面を1台破損したり、自分自身が顔面から倒れて負傷したりと、どんなゲームにもリスクはつきものであることも痛感した。
  • 6月には大阪大学基礎工学部にて5年ぶりに講義を行った。今回のテーマはsustainability、つまり情報環境の持続可能性に関して、さまざまな視点から問題を提起した。講義の内容はGitHubのレポジトリで公開している。
  • 7月から8月にかけて、ARM Cortex-M3ベースのSTM32F103の学習を兼ね、新部裕さんのNeuGの製作実験と追試を行う。この結果STM32 Nucleo Dongle部でのNeuGの実装に成功。FreeBSD用の物理乱数注入ドライバとOS X用の物理乱数取得ツールも開発し、後述のavrhwrngにも応用できる物理乱数の運用環境を整えた。すでにNeuGやavrhwrngは運用レベルでの実験を行っている。
  • 2013年から続いていた東京の実家の取り壊しと改築が8月末に終了。これに伴い9月より東京の拠点を開設。12月には大阪の家とIPsec VPNおよびIPv4/IPv6のグローバル/プライベート接続を行い、ネットワークの実験環境としても利用可能になった。今後はこれまで以上に東京での活動を増やしていくことになるだろう。
  • 11月には情報処理学会第8回インターネットと運用技術シンポジウム(IOTS2015)にて、情報セキュリティを確保する上に不可欠である物理乱数を生成するArduinoのための廉価な(秋葉原の電気街で2千円以下で調達できる)ハードウェアavrhwrngに関する発表を行った。この成果はGitHubのレポジトリにて公開している。この開発に伴い11月にはデジタルオシロスコープを導入した。
  • 12月にはQiitaにてC言語とFreeBSDのアドベントカレンダーを開設し、自らもErlangやElixirなどのカレンダーを含め22件の日本語の記事を投稿した。
  • 昨年12月から運用しているFlightRadar24.comの受信局は、NTT西日本やASAHI-NETの障害による事故はあったものの、順調に動いている。今年はさらに近隣の受信局と協力してMLATによる位置推定も行われている。KIX/ITM/UKBあるいは関西/伊丹/神戸各空港の混雑した大阪湾近郊の空域の状況通知には十分寄与できているようだ。

一方、昨年同様、多くのものを捨てなければならなかったのもまた事実である。これもいくつか列挙していこう。

  • アマチュア無線の活動のうち、従来の短波交信に関するものは、記録の整理を除いては新規には行っていない。今年は全く新規交信のない1年となることがほぼ確実である。
  • 物理メディアからの脱却を図っている。CDとDVD以外の音楽メディアや過去の活動に関する書類は必要最低限に限り封印して保管することとし、技術系の紙の図書は大部分を売却した。今後も情報のmedia consolidationは続けていくことになるだろう。
  • 自分の技術系情報の公開場所はGitHubと日本語ではQiitaに集約しつつある。技術情報の配布については、このblogが使われることはもうなくなるだろう。記録としては残していくし、今後状況が変わったらまたこの場所を使うことは大いにあり得るが。
  • Twitterでの議論は昨今の社会状況を鑑みる限り(ごく専門的な技術的事項を除いて)事実上不可能になったと判断し、SNSの付き合いの大半はFacebookに移した。Facebookは知人あるいは業務上連絡を取る必要がある場合のみの運用としている。
  • 生活は引き続き厳しい。事業開始2年目であり当然ともいえるが、引き続き業務に直接つながらない出費については緊縮財政に努めている。

2016年のことはもう想像もつかない。昨日を終えて今日を生きていられることは必然ではなく奇跡なのだと思って、日々の生活と業務に精励するしかないだろうという覚悟で2016年も活動していく所存である。

2014年12月31日

2014年を振り返って

無職で始まった2014年だったが,気がつけばもう終わりを迎えようとしている.

2014年は本当に厳しい年だったが,幸運にも,4月に開業した技術士事務所は,十分とはいえないまでも,無収入という最悪の状態は避けられた.顧客の皆様ならびにご協力ご支援いただいた皆様には深く感謝する.2015年はより一層積極的に稼いでいきたい.

以下,順不同の箇条書きで主な成果を振り返ってみる.

  • 仕事として日英翻訳を行った.日本語や英語に関する理解を改めることができた.その過程でSphinxを使い, ReSTやLaTeXによる文書制作の技術の復習,そしてJavaやPHPのセキュアプログラミングの勉強をすることができた.文書制作者あるいは編集者としての視点を久々に取り戻すことができたように思う.
  • Erlang/OTPについてはErlang Factory SF Bay 2014での発表そしてErlang Foundation Certificate試験への合格と証明書の取得,「すごいErlangゆかいに学ぼう!」のレビューへの参加,国内での各種発表を行った.ずっと取り組んでいる疑似乱数については,Xorshift*/Xorshift+による実装を提案している.その他,concurrentなStar Trekゲームの実装を体験できている(未完なので充実させたい).
  • iPad元年: 妻に倣い,iPad mini Retinaを導入.iOSの良さと課題,どちらも触ってみることによって良く理解できた.多くの業務はタブレットで十分だと思えるようになっている.
  • Androidの復活とガラケーの終焉: 12月にASUS A500KLの日本版を導入.SIMフリーのスマートフォンが日本でも容易に買えるようになったのには隔世の感がある.そして10年使ったauからIIJmioへのMNPを果たし,ガラケーから脱却した.
  • Intel NUCベースのシステム構築: 自宅のFreeBSDサーバ2台はどちらもIntel NUCベースになった.小型で周辺機器も問題なく接続でき,ちょっとした実験ならば気兼ねなく試せるのはありがたい.
  • Windowsの専用機化: 青色申告のための会計ソフトやOfficeのアプリケーションなど,どうしてもWindowsでなければならないもの以外はすべて他の環境で済ませている.
  • ADS-Bの受信とフィード: 5月から7ヶ月間Raspberry PiとR820T dongleによる受信ならびにFlightradar24.comへのフィードを続け,ITM/UKB/KIXをまんべんなく常時カバーすることができたという点で一定の成果は上げた.Ras PiとRaspbianのよい勉強にもなった.また,クリスマスの日からは同社から貸与を受けた機材を使い,ADS-BとGPSアンテナを屋外に設置することで,より高精度な位置測定ができるようになっている.
  • Ingress: 12月中旬のAndroidの導入とともにIngressへ参入.Resistance/青のエージェントとして,実に人生初のMMORPGへの参加となった.PA01-ALPHA-00のCellにて,多くの先達と共に楽しい日々を送っている.もともと歩くのは好きなので,運動不足解消の良い理由になりそうだ.
  • 第一級陸上無線技術士の免許を3月に取得した.無線工学への理解を深める良いきっかけになった.これをきっかけに,IoTや無線を使った情報機器の相互接続に関するビジネスも手掛けていきたい.
  • 平成26年度秋期の情報処理技術者ネットワークスペシャリスト試験に合格した.勉強の過程で,アカデミックなTCP/IPの教科書から一歩踏み出した現場の技術を動かしている原理原則に触れられたのは大変新鮮であった.2015年は情報セキュリティスペシャリスト試験の合格を目指したい.

一方,捨てなければならないものも多くあった.いくつか列挙していこう.

  • アマチュア無線については,諸費用捻出のため,所有機材の半分強を売却し,100W出すために必要だった固定局を閉局した.それでも最低限の実験だけはできるようにしている.
  • この記事の公開,およびそれにまつわる一連のできごとを機に,DNSに関する研究活動とは一定の距離を置くことにした.この記事の内容について批判するつもりはない.事実の開示は重要なことだろう.DNSがインターネットの重要な構成要素であることに対する自分の認識にはまったく変わりはない.しかし,もはや自分が「老害」として批判されるようでは,今後自分の出る幕はないだろうと判断した.情報セキュリティという難しい事象について,どのような態度で向き合うべきかを再考するにはよいきっかけになったといえる.
  • 生活を引き締めている.スタートアップだから当然ともいえるが,それまでのサラリーマン時代のお金の使い方と比べると,かなり変わったことは事実である.

2015年はどんな年になるかは想像もつかないが,もはや夢や目標,あるいは地位や名誉というものから縁遠くなった以上,日々の生活と事業をどうやって進めていくかに集中していかなければならなくなることは確かだろう.どこまでやれるかはわからないが,やらないで考えるよりはやってから考える人生にしたい.

2014年4月28日

雇用保険受給を終えて

昨年2013年10月からの職安通いが,今日の再就職手当受給申請で,終わった.長い7ヶ月だった.

今時は労働局の出先機関である公共職業安定所のことは「ハローワーク」というらしいが,昔から「職安」(しょくあん)という略称があるので,それに従うことにする.居住地の最寄りの職安は大阪労働局の池田公共職業安定所であり,今回はこの職安に7ヶ月お世話になった.職員の方々は皆丁寧に応対してくださり,技術士事務所の開業に伴う諸手続の相談にも細かく答えていただいた.

職安に行った理由,そして失業認定の実情

一般に職安に行く理由は3つあって,(1)仕事探し,(2)雇用保険給付金受給資格の確認(通称「失業認定」),(3)雇用者としての各種手続き,というのが主なものだろう.人を雇う事業主ならば(3)が主な目的だろうが,私の場合は2013年9月末日の会社都合による離職の結果の失業,そしてそれに伴う雇用保険給付金の受給,つまり(2)が主たる理由だった.

今年で社会人になってから24年になるが,最初の仕事に就職した1990年4月から前職を離職した2013年9月までの23年6ヶ月の間,雇用保険については応分の負担をしていた.だから雇用保険給付金の受給にあたっては何の問題もなかった.

雇用保険給付金は非課税であるため,失業者にとっては貴重な収入源である.しかし,その財源は国庫金であり,当然のことながらその給付を受けるには厳しい審査がある.詳細は省略するが,基本的に雇用保険給付金の受給には通常4週間ごとに設定される「失業認定日」に「失業の状態にあることの確認」をする必要があり,そのために職安に出頭しなくてはならない.この間に再就職が決まったり,開業の準備を始めるなどの事実が発生すれば,その時点で受給資格を失う.また,働いたり無給の手伝いをした場合も,正確に申告しなければならない.これらを怠った場合は,不正受給とみなされ,受給資格の剥奪だけでなく,すでに受給した金額の3倍を返納しなければならず,刑事告訴の対象となることもある.

そして失業の状態であることを証明するには,会社都合の場合でも,4週間の間に最低2回「仕事探しの活動」を行う必要がある.(自己都合の場合はさらに条件が厳しくなるが詳細は省略する.)この活動には職安あるいは同等の機関(人材銀行,ハローワークプラザなど)に出向いて求人情報検索や職業相談を行うこと,職能に直接関係する国家試験の受験,求人への応募(面接)なども含まれる.私の場合も,失業認定期間中に求人に応募したり(詳細は守秘義務があるので控える),無線従事者国家試験の受験などいろいろな就職活動を行ったが,そう多く求人があるわけでもないので,かなりの時間を求人情報検索に費した.それでも残念ながら自分に合いそうな求人は見つからなかった.

まあ自分の年齢が当時48歳という高齢であったこと,そしてかなり特殊な職能という事情を考えれば,このような結果になったのは当然の帰結かもしれない.

求人検索の実情

求人情報といっても,北大阪の職安から検索できる求人のほとんどは,IT関連ならSEかプログラマで,どちらかといえば体力勝負の仕事がほとんどであったように思う.東京の求人も検索したりもしてみたが,北大阪ではまずJavaかC/C++の仕事しかなく,ごくたまにRubyの仕事が出てくるぐらいであった.インフラエンジニア系の仕事もないことはなかったが,決して多いとはいえなかったように思う.残念ながらPythonやErlang,FreeBSDというキーワードにお目にかかることはなかった.それでも北大阪は梅田や大阪市北部という比較的IT産業の集積している地域を含むため,全国的にみればまだマシな状況なのかもしれない.

まあ雇用主としては,あまりメンドクサイことを言わずに黙って働いてくれる労働者が欲しいのだろうと思う.職安に委託されるような求人の案件は,そういう意味ではごく平均的な日本のIT産業の縮図なのかもしれない.

職安で見る風景

離職後職安に最初に出頭すると,初回講習を受けることになる.この講習では,雇用保険給付金の受給に必要な各種条件と手続の概要,そして不正受給に関する罰則の詳細についての説明を受ける.この時私が驚いたのは,幼い子供を連れた女性の多さであった.職安には託児所がないため,講習を行う職員の方はかなり苦労されていたように思う.もっとも,本当に苦労していたのは,子供をあやしながら講習を受けなければならなかった女性達の方だろう.後で知人にこの話をしたら,母子家庭で生活のやりくりが大変なのだろうということだった.

ただ,雇用保険給付金受給のために職安に来ている人達には,極端な悲壮感は感じられない.さまざまな職業や年齢の人達が集まっているのは事実だが,皆普通の格好をして,普通の応対ができる人達ばかりである.言い換えれば,さらに厳しい状況にある人達は,雇用保険給付金の受給資格すら持っていないのであろうと推察せざるを得ない.そう思うと,慄然とせざるを得なかった.もっとも,そういう今の私も,自営業を開業しただけのことであって,雇用保険にかかる費用は納付しておらず,もう雇用保険給付金を受けることはできない.(再度雇用保険に加入している雇用主の下で就職して被雇用者になれば話は別だが.)

ともあれ,この7ヶ月間,自分の状況をいやがおうでも月に1度は認識させられたわけで,それだけでも実はかなり強力な「就職支援」制度になっているのではないかと思う.その意味で,自分は幸運だったのかもしれない.最近の日本でのブラック企業による雇用保険を含む社会保険に関する義務の不履行によって働いている社員も雇用保険の恩恵を受けられなくなる事態や,海外,特に米国での失業後の(何のセーフティネットもない)再就職までの悲惨な状況を考えると,あまり明るい気分にはなれないのが正直な所感ではある.

Update 3-JUN-2014: おかげさまで無事再就職手当の支給を受けることができた.今後も仕事に精進していく所存である.

2014年4月24日

力武健次技術士事務所 開業のご案内

このたび2014年4月21日に,日本技術士会に技術士登録変更届出書を提出し,「力武健次技術士事務所」を個人事業として営む旨届け出ました.これに伴い,2014年4月24日に,豊能税務署と大阪府豊能府税事務所に,個人事業の開業届他関連書類を提出しました.この開業届の提出をもって,法的に正式に個人事業主としてのスタートを切りました.

開業といっても,やることは今までの技術者と研究者としての活動の延長であることには変わりありません.昨年2013年10月より6ヶ月強の間各種求職活動を行って来ましたが,諸事情勘案の結果,自分ができること,やりたいことをする上で,被雇用者ではない形を取るのが最善の道であろうという判断をしました.その上で,まずは個人としてスタートしようということで,自分の持つ技術士(情報工学部門)のライセンスを活かした形で始めることにしました.

もっとも,世間を賑わせている米国西海岸のスタートアップとは違い,開業に伴う華々しい話は一切ありません.当面の目標としては,まずは借金なしの経営をしつつ,社会に対して微力ながら自分の能力を役立てればと考えています.これは大変難しいことですが,始めた以上は覚悟をもって挑む所存です.

業務内容は情報工学全般,特に過去経験してきた情報セキュリティ,ネットワーク,Erlang/OTP,FreeBSD,モバイルの無線技術関連を主としつつ,これらにこだわることなく何でもやるつもりです.何かお役に立てること,お困りのことがありましたら,遠慮なくご相談ください.連絡の方法については以下のURLを参考にしていただければ幸いです.

力武健次技術士事務所のページ URL:http://rikitake.jp/ (2014年12月にURLを更新)