2011年3月30日

挫折の先に見えたもの

(新卒準備カレンダー2011春 http://atnd.org/events/13324 向けのエントリーです.
@happy_ryoさんから引き継ぎました.)


私の自己紹介などは
に掲載しています.

そしてこの文章の他にも以下のリストにある記事を書きました.このblogの中の関連記事には newgrad2011 というタグを付けています.参考になれば幸いです.


これから社会人になる人達にとってはもちろんのこと,そうでない人達にとっても,2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震で,皆さんの生活は大きく変わっていると思います.この記事を書いている2011年3月29日現在,地震とそれに関連して生じた災害について,私が1995年の阪神淡路大震災の体験から言えることは,疲れは後から出てくるものなので決して甘くみてはいけないということ,そして,この地震から立ち直るためには,10年以上の非常に長期の作業を強いられるだろう,ということしかありません.

ただ,私個人が過去45年あまりの人生の体験から何か確信を持てることがあるとすれば,挫折の先にも待っているものはあるし,挫折を受け入れることによって人間は次の段階に行ける,ということだと思います.

私にとっての最初の人生の挫折は,1975年,10歳の時の日本帰国時のショックでした.当時「帰国子女」といういささか違和感のある用語が文部省(現在の文科省)によって作られましたし,私に限らず多くの帰国者がこの用語で色眼鏡で見られたように思います.そして,私も他人との接しかたが他の人達と違うことから,随分嫌なレッテルを貼られました.ただ,幸いにして自分の人生を支えるものとして,電子技術やアマチュア無線,そしてコンピュータとその時に出会えていましたから,ひどくふさぎ込むようなことはなかったように思っています.

そして次の挫折は,1982年,17歳の時に,右眼の白内障,そして網膜剥離を発症したことです.現在も右眼の水晶体はない状態です.細かい原因についてはあえて触れませんが,これで正確に立体視する能力を失いました.車の運転免許を持っていないのはそのためです.結局1986年までの間に4回手術することになりました.車の運転ができない,というのはなかなか嫌なもので,特に米国やカナダのように車がないと生活に不自由する国では事実上働くのが大変困難になった,ということを事実として突き付けられました.シリコンバレー云々という話も,健康あってのことですし.最初の手術直後は大学入試もあきらめかけていました.まあその後なんとか大学には入って出るわけですが….

さらに次の挫折は,1992年,27歳の時です.修士を出た1990年から2年間,Digital Equipment Corporationの日本法人である日本DECという会社で働いていましたが,身体がどうにもついて行かず,当時の婚約者(現在の妻)が大阪に仕事が決まったこともあり,辞めることになりました.当時はインターネットの研究をしたいといっても受け入れてくれるところはなかったのですが,東京の会社の研究所を立ち上げるために京都で仕事をさせてもらうことになり,なんとか社会人の人生を続けることはできました.今思えば薄氷を踏む思いでしたが.修士卒でしかない人間が研究所云々を言える状況ではないと知ったのは,大分後のことです.結局博士を取るには2005年までかかりました.

これで挫折は終わりません.1997年,妻が強度のテクノストレスのため,うつ病を発症しました.彼女は3年間休職することになります.そしてその後,2002年,37歳の時に,今度は私が悪化していたアトピー性皮膚炎が原因で感染症を発症してしまいました.3週間あまりの入院を経て,もう自分は身体に無理が効かないことを悟りました.その間,2000年末には1992年から続けてきた研究所の活動を終了し,正社員の身分を捨てて,2001年以降現在に至るまで契約社員(任期付き雇用)の道を歩むことになります.契約社員の道を選んだのは,通勤に耐えられる身体ではなかったというのも理由の1つです.家族の介護と自分の病気のために,1997年12月~2005年8月までの間日本を出国できなかったことは,多大なる機会損失であったと思います.これは誰の責任でもなく,他に守るべきものがあったから日本にとどまったのだといえばそれまでなのですが.

そして2009年度はひどいものでした.5年間の任期が切れようとしていても,公募にはことごとく落とされ,次の仕事が決まらず,つくづく契約社員(任期付き研究員)というのは厳しい身分だというのを思い知ることになります.幸い今の仕事の公募を紹介していただき,2010年に入ってどうにか就職することができましたが,当然条件として(裁量労働とはいえ)通勤が前提でした.今思えば人間の身体というのは結構環境に適応するものだと笑って済ませられることでしたが,当時は本当に不安でした.なにしろ日本DECを辞めた直接の理由は,東京-横浜間の長時間通勤とそれによる睡眠不足だったからです.

そして現在の仕事も,2014年9月末までの任期となっており,安定した身分とはいえません.期間を定めず雇用されている人達(企業でいえば正社員に相当)と比べると,不安定な立場であることは否定できません.まあ,それでも過去に培ったインターネットとテレワークの技術と経験を駆使して,どうにか身体と折り合いをつけながら仕事はできていますが,決して無理は効きません.北大阪-京都市内の通勤は東京-横浜間に比べれば負荷は軽いですが,これも甘くみることはできません.仕事を続けるために,多くの人付き合いをあえて断り,お酒も止めて節制しています.


さて,それでも続けるような価値のある仕事を自分はしているのでしょうか.

思えば1988年,修士の際配属させていただいた関数型言語の研究室では,およそ関数型言語になじめず,「お前はインターネットで遊んでいるだけで研究なんかしていないじゃないか」と怒られたこともありました(事実ですから否定はできませんが).そして,その後も「お前は博士も持っていないのに」「お前は通勤もしていないのに」と,批判を多々受けてきたことは否定できません(これも事実ですから受け入れるしかありません).現に,周囲を見れば,年齢はそう変わらずとも私には遠く及ばない立場で大活躍している先輩方が多数おられますし,自分の研究者人生は他の人達より少なくとも10年は遅れています.1921年3月30日生まれだった父はこの記事が公開されるときはちょうど生誕90年(父は2004年8月に83歳で亡くなりましたが)ですが,父の業績にはおそらく私はどんなに頑張っても数でも質でも及ばないでしょう.

しかしながら,今の自分を見てみれば
  • 修士の時およそ大嫌いで単位も落としたPrologと文法も構文も似ているErlangという言語を使う立場になっている(苦笑)(Prolog使いの方々は尊敬しております.20年前には私の頭の出来が悪かったので理解できなかったということです.)
  • 結局通勤地獄の戦線に復帰している(笑)(とはいえ,労働時間は弾力的にさせていただいていますが.)
  • 過去のOS開発の経験は,今やっているErlangの一部であるOTPの研究に,大いに役立っている
  • 曲がりなりにもどうにか博士にもなった(苦笑)
  • あれほどイヤだった大学の教職員になっている(笑)
  • 技術の進歩により,世界中の大変優秀な人達,特に若い人達の話を聞ける幸せを噛み締めている
…ということで,結局,挫折の先にも何か得るものはあったのかな,という結論を得ています.きっと,続けている意味はあるのでしょう.

もちろん明日は何が起こるかは誰にもわかりません.関東地方の研究者で,地震の結果の災害が原因となった計画停電が理由で研究計画の実行を実質的に中断しなければならなくなったという話も聞いています.とても不幸かつ残念なことです.そして,今の任期が終わる時,私に次の職があるかどうか保証はありません.(そのときはぜひ仕事させてください :-) )

それでも,何か続けていれば,どうにか生きていけるものなのかな,という,曖昧模糊とはしていますが,未来への確信はあります.もし挫折で人生がイヤになったら,一休みするのも手だと思います.泥まみれになれば,どうにか道は開けるものです.人生は,継続学習そのものなのでしょう.そして,コンピュータの世界は,まだまだ可能性に溢れていると,私は思います.


ようこそ,コンピュータ技術者の世界へ

(次は@masaru_b_clさんです.)