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2017年2月26日

一体私は何者か: 複数言語を扱う苦悩(2016年9月)

以下は、昨年2016年の9月24日に書いた文章である。この月はスウェーデンのストックホルムに行き、月の後半には奈良で ACM Erlang Workshop 2016に参加したりしていた。ストックホルムの紀行文はいずれ書きたいと思うが、まずはこの雑文を記しておく。


今月(注: 2016年9月)はとても忙しい月である。妻の白内障手術のフォローとか、東京拠点のメンテナンスとか、仕事の作業とか。しかもまだやるべきことが終わっていない。だから月末まで走り続けなければいけない。しかし、昨日JR奈良駅近くから近鉄奈良駅まで急いで7kgの荷物付きで歩いたりなど、奈良市内で5kmは歩いたので、右膝が死んだ。Erlang/Elixir界隈のスーパーな若者に「膝」を名乗る人がいるのだが、彼のことを思い出した。

今月は徹底的に人間的に「自分は何者か」を考えさせられた。基本的に日本語と英語の脳は別にできていて、別の人格が出てくるので(もちろん統合はしている)、両方をフル活動させないといけないときは、とても疲れる。具体的には、Erlangのことでストックホルムに行って発表した後、さる方の御自宅にて歓待していただいたときとか、昨日奈良に行ってErlang Workshopの後の宴会のアレンジで注文他の通訳者をやったとか(幸い日本通の米語母語話者が2名強力に説明してくれたので私は補助的役割で済んだのだけど)、そんな時はふだんの10倍ぐらい疲れる。

そして宴会が終わった後、「自分はいったい何だったんだろう、ひどい英語しゃべって、ひどい日本語しかできなくて、とんでもないよねえ」という徒労感にいつも襲われるのである。

帰国者として日本社会の構成員の大多数(特に出国経験のない人達)から非国民扱いされるのはもう慣れたし、そのことは普遍的であろう人権の理念に立てばまだ申し開きようもあるだろう。でも複数言語を同時に使うことによる苦痛、そしてさらにその先に自分自身であることを要求されることの苦難に耐え抜かなければならないことは、誰に申し立てようもなく、自分で背負うしかない。とても悲しい。年々酷くなっていく米語の滑舌と、悪くなっていく頭の反応速度。自分の理解が進んだせいで自分の欠点がわかるようになったということもあるが、加齢はきつい。いつ死んでもおかしくない。

そんな泣き言を言いつつも、仕事と生活は続く。終わらない。成果を出さねば。成果のための環境整備をせねば。そんな気分で最近はいつも寝ている。明日のことを考えなくて済む人達をうらやましく思いつつ。そんな人達はいないのかもしれないが。

2011年2月27日

早期バイリンガルであることの強みと苦労とは

: 早期バイリンガルであることの強みと苦労とは? 二つの言語間の関係は影響するのか?
What are the advantages and disadvantages of early bilingualism? Does the relationship between the two language matter?
http://www.quora.com/What-are-the-advantages-and-disadvantages-of-early-bilingualism-Does-the-relationship-between-the-two-language-matter

Quoraに書いてあったので答えてみた.日本語でも書いてみる.

私にとっては,日本語と英語って言語的に一緒のところはほとんどない.だから9~10歳のころにバイリンガルになったってことは人格形成におそらく間違いなく影響していると思う.もう30年以上そんな人生を続けているから,まるで言葉ごとに2つの別の人格に分かれているような気がするし,あるいは二つの言語の社会ごとに自分の立ち振舞いを変えなきゃいけないように感じている.

未だに私は両方の言葉の違いが原因でたくさん文法間違いをおかしている.たとえば,英語の文法要素で,単数/複数,動詞の活用,時制,冠詞,そして前置詞というのは,日本語にはほぼ存在しない.だから文章を何度も校正するときは,すごく集中する必要がある.自分の間違いの直し方は知っているけど,正しく話したり書いたりしようとするのをよく忘れてしまう.

その一方で,日本語では明示的に文の主語を著さない.日本語の動詞や形容詞はそれらが表す行動をしている人を通常は暗に含んでいるからだ.だから英語から日本語に文字通りに訳すのは文章を冗長にするし,余計なことばかり書いてあって,しばしば一般の人にはとても理解しがたいものにしてしまう.

個人的には文化的な違いも重要な役割を果たしていると思う.日本語を話すときは,失礼でないように,攻撃的でなく,決めつけないようにしなければいけないし,他人の意見に直接反論してはいけない.日本の人達,そしてアジアの韓国や中国の人達は,彼等の意見が直接会話で否定されることに対してはすぐに立腹する.なぜなら彼等の多くはその意見の否定を個人的な侮辱だと受け取るからだ.だからそのことを私は注意するようにしている.

もっともその一方で,日本人の礼儀正しさ,あるいは同意できないときにもそれを直接表現しないことは私には非常に不誠実な態度に見える.たとえそのことが一般的には私を感情的に傷つけることを避けて顔を立てるための行為だとわかってはいても.

これも最近気がついたことだけど,話す主題や話題によって,言語の選択は強く影響を受けると思う.コンピュータのことを私が語る時は,英語の方がずっと楽に感じることがしばしばある.単語の多くは英語で学んでいるし,最近台頭してきた技術については特にそうだ.その一方で,電子回路や,無線技術,物理,電気通信などの話をするときは,日本語で最初に勉強したことが理由で,日本語が最初に浮かんでくることが多い.バイリンガルあるいは多言語で技術的な話題について述べるための能力を維持するには,話したり書いたりするそれぞれの言語で大量の語彙を維持する必要がある.

そんなことを考えつつ,私は10歳の時に日本に帰ってきてから30年以上の間ひとりぼっちでここまで述べてきたような困難と戦ってきた.もし早くからバイリンガリズムの専門家に相談することができていたら,こんなに長い時間をかけてこの問題に向かいあわなければならなくなることもなかったと思う.(私の両親はバイリンガルではなく,もちろんこの問題について彼等に落ち度はない.)

この話題も,私にとっては言語の「並行処理」の問題であり,いまだに解決できない「混沌」とした自分の意識世界の話である.そういう意味では「並行と混沌」の話なのだ.